今日は、ちょっとしたコラムです。
私のおじいちゃん
84歳になる私のおじいちゃんは、余命宣告されたにも関わらず、大好きなお酒を禁酒することが苦になり、もう死んでもいいから酒を飲ませてくれ!とお酒を飲み始めたらガンが治ってしまったスーパーおじいちゃんです。
(国立がんセンターなどでも調べてもらったけど、なぜ治ったのかは分からないと言われたらしい!笑)
余命宣告されてから10年以上経った今も、毎日ジムに通い、毎日お酒を飲んで楽しく暮らしています。
そんなスーパーおじいちゃんは彼の時代の人としては珍しく、長い間海外で仕事をしていました。だからよく小さなときから、いろんな国の話を聞かせてもらったものです。
そして私が20歳になったときには、海外を見せてあげたいと、海外旅行へ連れて行ってくれました。私の初めての海外渡航でした。
今こうやって海外やいろいろな文化に興味を持っているのも、彼がいろいろ教えてくれたからなのかなと感謝しています。
そんなおじいちゃんが教えてくれて、私の心にずっと残っている話を今日はしたいと思います。
田舎者が上京
彼は福島県の田舎から東京へ単身で出てきて、様々な職業に就いて暮らしていました。特にやりたいこともなく、会社に行くのが嫌になっては辞め、の繰り返し。
麻雀が得意な彼は、仕事にも行かず麻雀で生活費を稼いでいたときも。結婚したばかりの私のおばあちゃんが仕事をしない彼を目掛けて雀荘に殴り込んできたこともあったそうです(笑)
そんな彼が一念発起して見つけた会社が、石油プラントなどを造る会社でした。その会社に入社し、任されたのは海外建設現場の監督。英語も話せない彼が大抜擢されたのです。
今では仕事で海外に行くことも、旅行で海外へ遊びに行くことも、かんたんに出来る時代になりました。ですが、おじいちゃんが働き盛りの時代(60年代〜80年代)にはとても珍しいこと。
出張に行くときも、帰国するときも、空港には会社のメンバーが集まり、万歳三唱していたそうです。(まるで戦争に行くみたいな・・・)
その頃は海外の情報もあまり入ってこないでしょうし、中東など紛争がある場所の近くにも行っていたそうなので、決死の駐在という感じだったのかもしれません。
フラフラとしていた彼ですが、20代後半で入社したその会社には定年まで勤め上げました。きっとやりがいのある仕事だったんでしょうね。
サウジアラビアへ赴任
さて、プラント建設のプロジェクトのため、サウジアラビアへ赴任することが決まりました。そこで初めてイスラム教徒(ムスリム)の方たちとお仕事をすることになりました。
仕事を始めてみると、びっくり。一日になんどもお祈りをするために、作業を中断するのでなかなか予定通りにプロジェクトが進まない。
彼は、困ったなぁと思いつつも、日本では出会ったことがない初めて見るイスラム教徒の方が熱心にお祈りをされている姿に心を打たれたそうです。
ある日、事件が起こります。一緒に働いていた日本人のメンバーが、予定通りにプロジェクトが進まないことに腹を立て、お祈り中の方を蹴り上げ、仕事に戻るようにと怒鳴ったのです。
もちろんそんなことは言語道断。すぐにその日本人は隔離され、あなたはここにいたら殺されても仕方がない、すぐに日本に戻るように、と次の日の便で日本へ帰国したそうです。
神様を信じるということ
そんな思い出話をしてくれたおじいちゃんの顔はとても真剣でした。その話を聞いたとき、まだ宗教だとかお祈りだとかよく分からなかった小さかった私に教えてくれました。
神様を信じるということ、お祈りをするということは、人間だけに与えられた特権なんだよ。動物はお祈りしないでしょう。食べて眠るだけなら動物と同じ。
それでも人間は神を信じる。日本に住んでいると、理解するのが難しいかもしれないけれど、それはとても尊いことなんだよ。と。
信じる心は美しい
そんな話を聞いてから、宗教や信じること、お祈りすることに対してリスペクトしようと心がけていましたが、初めてインドへ行ったときに現地の寺院に行く機会があり、そのときに私はおじいちゃんと全く同じ気持ちを初めて経験することが出来ました。
真剣にお祈りする人たちの姿に、心打たれ、そして私がここにいていいのだろうか?と畏れ多い気持ちになりました。でも意外と、お祈りされている方は、ウェルカムなんですよね。
それからは、私も日本でも神社や寺院にお参りする際は、最低限の作法を学んで、真剣な気持ちで参拝するようにしています。
世界にはたくさんの宗教があります。キリスト教(の中にも、カソリック、プロテスタント)、イスラム教、ヒンドゥー教、シィク教、仏教、ユダヤ教・・・。
日本に生まれ育つと、なかなか宗教というものを理解しにくいかもしれません。でも子供の頃から、「神様が見てる」「お天道様が見てる」と意識したり、山や海には神様がいるんだと、どこかで神様は見ているのだと私は信じています。
神様や信じるものの形が違えど、それは危険でもなんでも無いし、どれが正しいということではなく、素晴らしいことなんだと尊重しあえればいいなと思います。
この話を聞いて、神様を信じるということについて今一度考えるきっかけとなり、誰かの心に届けば嬉しいです。
おわり。