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【UKカルチャー】40年代〜60年代イギリス映画史|イギリスの文化が開花するまで

こんにちは。あすゆき(@asliyuuki)です。

現在はインド映画が好きでインド映画ばかり見ているのですが、学生時代は特にイギリス映画に魅せられていた一人でした。特に60年代のイギリス映画に起こったムーヴメント【British New Wave】の映画たちが大好きで、学生時代に探求していました。

この記事では、40年代から見ていき、どのような経緯で60年代前半に【British New Wave】ムーヴメントが生まれたのか、またこのムーヴメントがどのように終焉していき、その後どのような文化が開花したのか60年代後半までをまとめてみたいと思います。



British New Wave ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴとは何か

1960年代のイギリスにBritish New Wave ブリティッシュ・ニュー・ウェーヴ】と呼ばれる映画たちが登場した。ニュー・ウェーヴと聞いて、あなたは何を思い浮かべるだろうか。映画好きの方なら、きっとヌーヴェルバーグ(フランス語で新しい波の意)という言葉を連想するのではないだろうか。

1950年代後半、イギリスの隣フランスではNouvelle Vague ヌーヴェルバーグ】と呼ばれる新たな映画運動が始まっていた。それまでは撮影所で映画を監督するまでの経験を積んで行くことが慣習とされ、豪華なスタジオセットで撮影をするというスタイルで映画が製作されていた。そんな商業映画界に対して、映画製作現場経験のない若者たちが、既存映画の批評から始まり、そして遂にはカメラを持ち、街の中でのロケ撮影や自由な演出で次々と映画を製作した。この若い作家たちの新たな様式の映画群やこの運動をヌーヴェルバーグと呼ぶ。

まさしくブリティッシュ・ニュー・ウェーヴは、このフランスで起こったヌーヴェルバーグと連動するように登場した。だがブリティッシュ・ニュー・ウェーヴの反抗的で労働者階級の若者たちへの共感を特徴とするその映画群は、それまでの煌びやかで華やかなイギリス映画や自由で奔放なヌーヴェルバーグの映画群とも一線を画していた。

1960年代」とその年代を指して、私は何故好きだと言っているのか。ブリティッシュ・ニュー・ウェーヴは何だったのか。まずは、そこから20年遡った40年代から順番に見ていこう。



40年代のイギリス文化

映画 - 華やかな時代

アカデミー賞5部門を受賞した「ハムレット」より:豪華なセット撮影での一場面

1895年にリュミエール兄弟が映画を生み出してから約50年たった1940年代。この頃のイギリス映画界は、黄金時代とも呼べる華やかなものであった。これはテレビが登場する以前、映画が人々の娯楽の大きな部分であったということはもちろん、伝統的に演劇が愛されているイギリスでは既に質の高い戯曲や鍛錬された俳優たちが揃っており、それらが良質な映画製作に貢献したという点が挙げられるだろう。

第二次世界大戦下では、世界各国で行われていたように大戦のイメージアップを担うためのプロパガンダ作品がイギリスでももちろん製作された。また戦後にはデヴィッド・リーンやキャロル・リードなどのイギリス映画界を牽引していく監督たちが、演劇戯曲や古典文学などを原作とした良質なドラマを生み出していった。

1948年、シェイクスピア戯曲を原作とする映画「ハムレット」が、第21回アカデミー賞で初めてアメリカ映画以外で作品賞等の5部門を受賞する。また同じく1948年の映画「赤い靴」がアメリカのゴールデングローブ賞を受賞したことや、ナショナル・ボード・オブ・レビューの年間最優秀映画賞のトップ10に選ばれたことからも、40年代イギリス映画が高く評価されていたことが伺える。


50年代のイギリス文化

映画 - 空白の時代

戦後、テレビ放送が開始され家庭用テレビが普及することで、映画産業が衰退することは遅かれ早かれ、先進国では避けられないことであった。例に漏れずイギリスでも1953年のエリザベス女王の戴冠式の生中継をキッカケに、急激に家庭用テレビが普及する。それと交差するように50年代のイギリス映画界は下火になっていく。

この50年代イギリス映画の衰退は、商業映画の中心地アメリカ・ハリウッドとも大きく関係がある。まずイギリスとアメリカは発音や細かな違いはあるものの、両者ともに英語国家である。そこで起きたのが、映画人材の流失である。その先駆けであるアルフレッド・ヒッチコックは、20年代〜30年代にかけてイギリスで多くの映画を製作するとその才能が認められ、40年には渡米し活動の中心をハリウッドに移した。イギリス映画産業よりも大きな資本やシステムを持つハリウッドは、映画作家にとってはとても魅力的であった。

またハリウッドの影響は人材だけでなく、製作された映画では逆のことが起こった。英語で製作されたアメリカ映画は字幕や吹き替えの必要なしにイギリスに直輸入ができる。イギリスの映画館では、自国のイギリス映画よりもアメリカ映画の上映が占め、これはイギリス映画産業の低迷に拍車をかけた。このようなアメリカ映画の影響から自国の文化を保護するために、1948年から50年代後半にかけていくつかの政策が施行されたが、どれもうまく行くことはなかった。

また50年代イギリス映画の特筆すべき点としては、ハマー・フィルム・プロダクションズのB級ホラー映画が登場したことだろう。戦後のファンタジー映画のジャンルはSF映画ブームにおされる形でホラー映画人気は低迷していた。ハマー・フィルム・プロダクションズは、30年代にヒットしたアメリカのホラー映画「フランケンシュタイン」と「ドラキュラ」をリメイクし、これが人気を博した。

このようなB級ホラー映画が生まれた経緯として、検閲を緩和し多くの映画を生産しなければならなかったという50年代のイギリス映画界低迷が背景にある。

映画 - Free Cinema フリー・シネマ

フリーシネマの創始者たち

そんな低迷するイギリス映画界の1956年から1959年にかけて、イギリス映画界に新たなドキュメンタリーフィルムの映画運動【Free Cinema フリー・シネマ】が起こる。195625日、ロンドンの国立映画劇場(現BFIサウスバンク)にて、本運動は始まった。

4人(リンゼイ・アンダーソン、カレル・ライス、トニー・リチャードソン、ロレンツァ・マッツェッティ<唯一の女性でイタリア人>)の若者によって始められたこの映画運動は、自ら製作した映画を発表するイギリスのプログラム3回と、外国の映画監督を紹介する3回のプログラムから構成され、6つのプログラムのうちの1つ「フリー・シネマ」というプログラム名から命名された。

最初のフリー・シネマのプログラムは、彼ら自身が製作した3つの短編映画から構成された。そしてこの3作が上映されるとたちまち評判となり、同年の第9回カンヌ国際映画祭でも上映されることとなる。

❶ リンゼイ・アンダーソン監督O Dreamland

 →ケント州マーゲイトの遊園地で休日を過ごす労働者についてのドキュメンタリー映画

 

❷ カレル・ライス&トニー・リチャードソン共同監督Momma Don’t Allow

 →ウッド・グリーンの労働者が集まるジャズクラブについてのドキュメンタリー映画

 

❸ ロレンツァ・マッツェッティ監督Together

 →ロンドンのイーストエンドにいる聾唖港湾労働者についてのドキュメンタリー風フィクション映画(デニス・ホーンの短編小説を原作とする)

フリー・シネマの作家たちは、ふつうのそして大多数の労働者階級の英国、という主題にフォーカスをあてる決意を共有していた。これらの人々が当時の中産階級が支配する英国の映画産業によって見落とされていると感じていたのだ。

毎プログラムには、主にアンダーソンによって書かれた挑発的な映画マニフェストが付属しており、それは彼らの意志を提示し他の映画製作者に効果的な宣伝をもたらした。記念すべき第1回プログラムのマニフェストでは上記の彼らの信念が語られ「自由、人々の重要性、そして日常の重要性への信念」を貫くことを高々と宣言した。そしてそのマニフェスト通りに、フリー・シネマの作品では、労働者階級の人々の生活をリアリスティックに描き、彼らの日常生活つまり人生の重要性を訴えかけている。

フリー・シネマが影響を受けたと認められるのは、イギリスの詩的ドキュメンタリー監督ハンフリー・ジェニングス、フランスの詩的リアリズム映画監督ジャン・ヴィゴである(フランスのヌーヴェルバーグにも大きな影響を与えている)。同時期に北米で起こっていたドキュメンタリー映画運動のダイレクト・シネマ・ムーヴメントにも共通点を見いだすことが出来る。またフリー・シネマ5回目のプログラムでは、フランスのヌーヴェルバーグが取り上げられた。

このようにして既存の中産階級による中産階級のためのイギリス映画界に風穴を開けることになったフリー・シネマの創設者たちは、イギリス演劇や文学と密接に融合し、ドキュメンタリー映画からフィクション映画-ブリティッシュ・ニュー・ウェーヴ-へと昇華させていく。その証に最終回のマニフェストには、ブリティッシュ・ニュー・ウェーヴ作品「年上の女」「怒りを込めて振り返れ」についての記載がされている。

映画雑誌 - Sequence シークエンス

1947〜1952 年にかけて、フリー・シネマの中心人物であるリンゼイ・アンダーソンとカレル・ライスは映画批評誌【Sequence シークエンス】を設立・発行していた。既存商業映画に対する批評の姿勢というのは、フランスのヌーヴェルバーグとの共通点が見いだせる。

前述した通り、当時のイギリスでは自国の文化を保護するために様々な助成金制度を設けており、この批評誌シークエンスもその助成金を得ながら発行されたものであった。彼らは徐々にその活動を批評から映画製作へと移行させていった。

映画・演劇 - Angry Young Man 怒れる若者たち

【Angry Young Man 怒れる若者たち】は、元は1950年代に登場したイギリスの若手作家たちのムーヴメントで、J・オズボーンのデビュー作「Look Back in Anger 怒りを込めて振り返れ」から生まれた呼称である。

若手の劇作家や小説家たちが、労働者階級、地方出身者や下層階級などを主人公のアンチヒーローとして据え、それまでイギリス演劇界でも焦点を当てられることのなかった人々を描いた。映画界でフリー・シネマ運動が起こっていた頃、同時期にイギリス演劇界でも同様の既成社会に対する若者たちの反発が生まれていたのだ。

フリー・シネマ創始者と作家たちは共鳴し、彼らの書いた戯曲や小説は数多く映画化された。作家たちは映像脚本という形で映画製作に加わり、映画と演劇の垣根を超えたこの社会ムーヴメントを「怒れる若者たち」と人々は呼んだ。

主な作品

コリン・ウィルソン「アウト・サイダー」

キングズリー・エイミス「ラッキー・ジム」

ジョン・ウェイン「急いで駆け降りよ」

ジョン・ブレイン「年上の女」

ジョン・オズボーン「怒りを込めて振り返れ」

アラン・シリトー「土曜の夜と日曜の朝」



60年代のイギリス文化

映画 - British New Wave ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴ

【British New Wave ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴ】は、フリー・シネマのドキュメンタリー映画運動と怒れる若者たちの劇作家たちとの共鳴を経て、1950年代後半~1960年代半ばに起こったイギリス若手映画監督たちの運動を指す。労働者階級の生活を描くリアリズムフィクション映画ムーヴメント。

フリー・シネマ運動の創始者たち:リンゼイ・アンダーソン、トニー・リチャードソン、カレル・ライスが代表格で、その信念に賛同したジャック・クレイトンやジョン・シュレシンジャーなどもこの映画製作に加わった。

ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴの作品たちは、前身にあたるフリー・シネマの労働者階級の生活をリアルに描くことでその苦労を浮き彫りにするリアリズムを踏襲することはもちろん、実際に地方都市でのロケ撮影を行ったこと、セックスそのものからそれにまつわる描写(中絶・流産)を盛り込み、また黒人や同性愛者などを描いたことなども特徴として挙げられる。これらはそれまでのイギリス映画に登場していなかったことである。

ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴの終焉は意外にも早く訪れる。1963年にトニー・リチャードソンが監督した「トム・ジョーンズの華麗な冒険」は、アカデミー賞4部門を受賞、またその他国際映画祭などでも評価される。階級社会への皮肉を込めたブリティッシュ・ニュー・ウェイヴの精神が込められたものであったが、コスチューム・プレイのエンターテインメント作品へと昇華し、それまでのリアリズム描写から卒業することとなる。

60年代に入るとイギリスでは様々なユース・カルチャーが開花し、自由で奔放な解放された時代へと突入する。時代の波も後押しし、ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴのメンバーたちも次のステージへと移ることとなった。

主な作品

1959年「年上の女」

1959年「怒りを込めて振り返れ」

1960年「寄席芸人」

1960年「土曜の夜と日曜の朝」

1961年「蜜の味」

1962年「或る種の愛情」

1962年「長距離ランナーの孤独」

1963年「孤独の報酬」

映画 - Woodfall Film Productions ウッドフォール・フィルム・プロダクションズ

Woodfall Film Productions ウッドフォール・フィルム・プロダクションズ】は、フリー・シネマ運動やブリティッシュ・ニュー・ウェーヴの中心人物たち、トニー・リチャードソン、ジョン・オズボーン、ハリー・サルツマンが設立した映画製作会社。

ウッドフォール・フィルム・プロダクションズは、ブリティッシュ・ニュー・ウェーヴ作品群の製作中心になったイギリス映画史において重要なプロダクションであるが、メンバーのうちハリー・サルツマンはカナダ人であり、皮肉にもこのプロダクションは、ハリウッドのワーナー・ブラザーズの出資を得て設立された。

主な作品

1959年「怒りを込めて振り返れ」

1960年「寄席芸人」

1960年「土曜の夜と日曜の朝」

1965年「ナック」

1969年「ケス」

1984年「ホテル・ニューハンプシャー」

文化 - Swinging London スウィンギング・ロンドン

60年代、イギリスでは戦後のベビーブームで生まれた世代がティーンエイジャーとなり、様々なユース・カルチャーが開花した。60年代半ばには【Swinging London スウィンギング・ロンドン】と呼ばれるファッション、映画、音楽、文学、アート、建築などの融合ストリートカルチャーが一斉を風靡した。

このスウィンギング・ロンドンカルチャーに先立つ1961年に、イギリスでは避妊薬が認可された。このことが性の解放に大きく寄与し、またドラッグの登場により60年代の若者たちは随分と性に対して解放的になる。特にスウィンギング・ロンドンのファッションといえばミニスカートが挙げられ、足を大胆に見せるこのファッションは女性の性の解放の象徴とも言えるだろう。

60年代のイギリス映画ではスウィンギング・ロンドンの若者たちを描く作品が登場したことはもちろん、セックスやヌード描写に関するタブーを破り、性描写に対して自由な作品を生み出していった。

主な作品

1965年「ダーリング」

1965年「ナック」

1966年「ジョージー・ガール」

1966年「アルフィー」

1967年「欲望」

1968年「ジョアンナ」

映画 - James Bond series 007シリーズ

現代に続くイギリス映画の【James Bond series 007シリーズ】も、元はといえばこのスウィンギング・ロンドンのムードの中から生まれた。映画プロデューサーのハリー・サルツマン(ウッドフォール・フィルム・プロダクションズ創始者)とアルバート・R・ブロッコリは、イギリスのスパイ小説を原作にセクシーでエキゾチックな舞台設定、アクションやユーモアを織り込み、007シリーズを成功させた。

先述したスウィンギング・ロンドンのミニスカートが女性の性解放を象徴づけるものだとすれば、国家公務員スパイでありながらセクシーで良い女を引っ掛けまくる007シリーズは、男性の性解放を象徴づけるものと言っても良いだろう。

最初のボンド映画「007 ドクター・ノオ」はイギリスで大ヒットし、続く「007 ロシアより愛を込めて」は世界中で大ヒットした。このシリーズの成功はスパイ映画ブームを生み出し、イギリスでも多くのスパイ映画が製作された。

主な作品

1965年「殺しのエージェント」

1966年「唇からナイフ」

映画 - 外国人監督

50年代〜60年代前半まで、優秀な映画人材がアメリカ・ハリウッドに渡るという状況に直面していたイギリス映画界だが、60年代後半へ差し掛かると海外の映画製作者たちも、イギリスカルチャーの勢いや映画へ目をつけ始め、イギリスでの映画製作に乗り出した。

またアメリカの映画監督たちも本格的にイギリスに拠点を置くようになる。

主な作品

ポーランドの映画監督:ロマン・ポランスキー

  1965年「反撥」

  1966年「袋小路」

イタリアの映画監督:ミケランジェロ・アントニオーニ

  1966年「欲望」

フランスの映画監督:フランソワ・トリュフォー

  1966年「華氏451

イギリスに拠点をおいたアメリカ人監督

ジョセフ・ロージー

スタンリー・キューブリック

リチャード・レスター



60年代後半〜70年代のイギリス文化

60年代にイギリスで生まれた文化は上記に書いたスウィンギング・ロンドンだけでなく、【British Invasion ブリティッシュ・インヴェイジョン】と呼ばれるビートルズなどのロックの勃興や【Mods モッズ】と呼ばれる音楽やファッション嗜好が合わさった若者のライフスタイルなど、様々なカルチャーが生まれ、それらは直接的・間接的に影響を及ぼしあった。

残念ながらどのカルチャーも長くは続かなかった。若者たちの間ではドラッグの蔓延が深刻化し、ジャンキー(廃人)と化し、帰らぬ者となることも多かった。また60年代後半に差し掛かるとイギリス病と呼ばれた経済成長の停滞が見られ始め、セックス・ドラッグ・ロックンロール!を体現したような享楽的なライフスタイルの維持は、若者にとって困難となる。それはローリング・ストーンズが薬物で検挙され、ビートルズに訪れた不和和音と連動しているとも言っても過言ではない。このようにしてイギリスの勢いある文化たちは静かに終焉を迎えることとなった。

イギリスの70年代は経済的停滞があり冷えた時代となったものの、60年代のカルチャーや精神は細々と引き継がれ、映画ではケン・ローチ監督を始めとする【Realism リアリズム】主義映画が製作され、モッズの系譜である【Skinheads スキンヘッズ】、また70年代終盤には【Punk Rock パンク・ロック】が生まれている。

★イギリス映画「This is England」を観て、スキンヘッズとパキバッシングについて書きました。

【外国映画の中のインド】イギリス映画「This is England」|80年代イギリスで起こったスキンヘッズのパキ・バッシング

最後に

ノートの画像

この記事は、自分が学生時代にまとめていたノートを参考に作成した。当時、様々な文献やソースを使って調べたものであるが、どの文献やソースを参考にしたかまでは記録していなかったので、ここで参考文献として名前を載せることができないことをお詫びしたい。

このように時代の流れを見ると、いかに60年代のイギリスは勢いがあり多くの人を惹きつけたのかが理解できるかと思う。だからこそ、その華やかな部分にフォーカスがあたりがちで、ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴはあまり知られていない。同時期にフランスで起こったヌーヴェルバーグと対比しても、あまりにも過小評価されているように思う。

だがフリー・シネマブリティッシュ・ニュー・ウェーヴがあったからこそ、その後の文化が生まれたとも言えるわけで、もしイギリス文化に興味がある方にはぜひ手にとって観て欲しいと思う。作品の紹介まで書きたかったが、ずいぶんと長く書いてしまったので、作品についての紹介はまた別の機会に譲りたい。

あすゆき

最後までお読みいただき、ありがとうございました🧡

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