イード・アル=アドハーを感じる祝日【イスラーム教の犠牲祭】

おはこんばんちは🙂 あすゆき(@asliyuuki)です。イード・ムバーラク🌙 今日はイスラム教の宗教行事イード・アル=アドハーの日。お休みかどうかは会社規定によると思いますが、私の会社では祝日でした。

私はまだまだイスラーム教について知らないことばかりですが、初めてイード・アル=アドハーの意味を学び感じながら、いろんなことを考えた一日になりました。

イード・アル=アドハー

イード・アル=アドハーは、イスラーム暦12月10日(メッカ巡礼の最終日)に行われるお祝い事。イスラーム暦は、世界中で採用されている太陽の回転周期を基にするグレゴリオ暦と違い、月の満ち欠けを基にしているため、毎年私たちの使うカレンダーではその日付が毎年異なることになります。

私はアラビア語を知らないため「イード・アル=アドハー」これが原語に即した正しい読み方なのかわかりませんが、この読み方が日本語では通称となっているのでこの読み方で書きますね。

ヒンディー語では、ईद अल-अज़हा と書くので「イード・アル=アズハー」の呼び方のほうがここでは正しそうです。(ウルドゥー語では عید الاضحی ウルドゥー語ぼちぼち勉強してますが、やっぱむずかしいな。。。)

またその他にもインドでは、このお祝い事で重要な動物のヤギを意味するBakriとお祝いを意味するEidから、बकरीद「バクリード」とも呼ばれています。

イード・アル=アドハーの由来

イード・アル=アドハーは、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教の経典である旧約聖書の中で語られる「イサクの燔祭はんさい」が由来です。

最初の預言者であるアブラハムは、神と子孫繁栄の約束をしました。しかし妻のサラは不妊であり、やはり身ごもることはなく時間が過ぎていきます。そこで妻はアブラハムに子孫をつくるために女奴隷と子を設けるように勧めました。その後たしかに女奴隷との間に子どもができるも、神との約束はサラとの子どものことを指していました。

 

そしてアブラハム100歳、サラ90歳のとき、奇跡的に男の子イサクが生まれました。イサクがすくすくと育ったある日、神はアブラハムへ告げました。「罪の赦しのためにイサクを捧げよ。」と。神に命じられたアブラハムは、その言葉の通りに息子イサクを殺そうとすると、神はその信仰心を称えて、イサクではなく代わりにヤギ(動物)を捧げるように告げました。

こうしてイード・アル=アドハーでは、どんなことがあっても神の言葉へ従い続けたアブラハムを称え、動物を犠牲に捧げ、お祝いしているのです。

* イスラーム教の「コーラン」では、神に捧げた“唯一の子”が、妻サラとの子イサクであるのか、先の奴隷との間に生まれたイシュマエルであるのかが明記されておらず、様々な説があるようです。

オールドデリー訪問

このお祝い事の雰囲気を少し感じてみたいな、と思ったのでオールドデリーに向かいました。異教徒の私がいるのが失礼にあたらないかなぁと少し心配だったのですが、ご飯を食べに行く!という目的で。

向かうメトロの中から、いつもよりもクルターを着たりトーピーを被っている男性が多いような気がしました。オールドデリーに到着すると、人が多い多い…!モスクは外から眺めました。みんなパリッとしたクルターを着ていたり、新しそうな綺麗な洋服に身を包んだ正装をしている方がたくさんです。

また楽しそうな子どもたちがとっても印象的でした。みんなおめかしして、女の子だとキラキラ・ひらひらしたドレスを着ていたり、メイクをしていたり、街中にもおもちゃ屋さんが路面に出ていたりして、街全体にお祝いムードがあふれていました🎉

そしてこのお祭りに欠かせないのはヤギさんです。街中には捌かれる前のヤギさんがいたり、お肉が入ったビニールを手に持つ方が多いです。目があうとお肉いる?って感じで見せてきた人もいました。

ヤギを連れて歩いている方もよく見かけました。これから捌きに行くのかな。

ザカート(喜捨)する

イード・アル=アドハーは、神に捧げた動物のお肉を、家族だけでなく恵まれない人たちへも分け与えて一緒に祝いましょう、という日です。

私は生き物を捧げることができないですが、オールドデリーのレストランではザカート(ज़कात)のシステムがあるので、少しだけですがDonateしました。ザカートというのは、イスラム教の基本的な考え方の一つ、かんたんに言うと富を持っているのは神のおかげ、だから他の人にもシェアしましょうというのですね。

レストランの前で食事を待っている方がいます(写真の左側)。そして右側にいるおじちゃんは、このお店の方です。このおじちゃんにお金を払うと、その料金の人数分のひとが食事をもらえるのですね。

かなりシステマチックに「はーい!ひとーり、ふたーり!」って感じで数えてました(笑)「はいっ終了!終わったからね〜」なんて言われて(笑)情緒もなんもありゃしません。そりゃそうです、だって神様のおかげで私もここにいてインドで働かせてもらってお給料をもらってるだけだもの。。。

どんなご飯を食べれるのかな〜それだけ見せてね〜と言って、写真を撮らせてもらいました。丸いナーン2枚と、じゃがいものカレーでした。これが25ルピー。おいしそ。

イード・アル=アドハーに触れて感じたこと

イード・アル=アドハーは、神様へ服従する者を称え、信仰心を祝う日です。そして命をいただき、それを振る舞い、誰も彼もが参加できるお祝いごとにするのです。街全体の明るい雰囲気が、とても印象に残りました。

私はすべてを見たわけでも体験したわけでもありません。そして本来のお祝い事の意味とは違うかもしれませんが、命をいただくこと、神への犠牲というよりは、私は他の命を犠牲にして生きているのだということを改めて強く感じました。

そんなの当たり前じゃん、って思うかもしれない。でも、こんなに強く感じたことは今まで生きて来た中でありませんでした。すぐそばにある命が捌かれ「お肉」へと変わっていく。お肉といえば美味しいもの。スーパーでトレイに入って綺麗に並んでいる商品。そこに至るまでには誰かが捌いていて、生き物の命が失われているということを考えたこと、感じたことはなかった。

お肉食べるのがダメだよね!なんてふうには思いません。そうじゃなくて、他の命をいただいていることにもっともっと感謝しなければいけないな、と思ったのです。そして食事を残さないことだったり。美味しくいただける分だけ食べるってことだったり。他の命をいただいておいしいもの食べたのだから、その命を無駄にしないよう、人のため世のためにがんばろう、であったりするかもしれない。

そして、こういうことが身近にあるからこそ、ベジタリアンを選択する人たちの気持ちも分かるような気がしました。

日本では、牛も豚も鳥も、卵も魚も魚卵も、いろんな命をたくさん食べる豊かな肉食なのに、こういった側面はなかなか触れる機会がないですね。いろんな命をいただくからこそ、当たり前じゃなくて感謝しなきゃいけないのに。

インドに来てから、ご飯もまともに食べられないという人たちを見て、残さず食べなければいけないなと本当にそう思うようになりました。そして今日は、さらにお肉を食べるということがどういうことなのか、分かりました。

日本というぬるい(?)国で生きて来た私は、はずかしながら体だけ一丁前の大人で、まだまだ未熟な子どもだなと思いました。インドで育つ子どもたちのほうがよっぽど命の大切さ、ご飯の大切さを知っているかもしれない。インドに来てから学ぶことばかりです🙇‍♀️

最後に!無事においしいご飯もオールドデリーで食べることができました。マトンコルマ!くさみは全くなし、やわらかくておいしかったです。感謝して食べないとです。日本語で「いただきます」そして手を合わせること、今日の気持ちを忘れずに一人で食べる時も声に出していきたいと思いました。

 

わたしたちが美味しく食べているお肉、その前に命をいただいているのだとすごく感じた、そして初めて目にしたいくつかの場面を書いておきます。

脚だけが落ちていました。子どもたちは見つけると、怖がっていました。

このように皮だけが集められている山をいくつも見ました。でもこれだけしか残らないんですね。他の部分はすべていただくのです。脳みそのカレーがある!だなんて最初はびっくりしたけど、こうやって命をいただくのだから全てを美味しくいただくことは大切なことだと思いました。

このように道が赤く染まっている場所を見ました。正直、心臓がドキドキしてショックでした。(オールドデリーではないイスラム地区で見ました)

 

あすゆき

最後までお読みいただき、ありがとうございました🧡

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